PROFILE 2017-06-29T18:48:27+00:00

身長・体重・利き足 170cm/69kg/右足
生年月日:1992年12月22日
出身地:神奈川県
ポジション:FW

代表及び主要大会成績

日本代表 U-15.16.17.22日本代表

2006年 日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会優勝

2009年 高円宮杯全日本ユースサッカー選手権(U-18)大会優勝

2010年 SBCカップ2010ドイツ/ラオプハイム得点王

2010年 第18回Jリーグユース選手権大会優勝

城北ファイターズから横浜F・マリノスの下部組織へ移り、ユースでプレーする。 U-17日本代表に落選した2009年の高円宮杯全日本ユースでトップ下として出場し、 磐田ユースとの決勝ではハットトリックに2アシストという大活躍を見せた。
2010年には兄が背負った背番号10を受け継ぎ、1トップのポジションでプレーをするようになる。 7月にはユース在籍中ながら、トップチームへ登録される。 同17日、第13節サンフレッチェ広島戦にて途中出場し公式戦初出場を果たした。 当時の背番号は40。翌節のガンバ大阪戦で初先発となると天野貴史のロスタイム決勝点をアシストする活躍を見せ勝利に貢献した。
この活躍によりコンスタントに試合に出場するようになり、2010年シーズンは17試合に出場し、リーグ3得点、天皇杯2得点という結果を残した。
2011年より、トップチームへ正式昇格することと同時にプロ契約を締結。高卒新人ながら背番号10を背負うことになった。
2013年1月にはベルギーリーグ1部スタンダール・リエージュに4年契約で完全移籍し現在はベルギーリーグ1部でプレーする。

スタートライン

1992年12月22日に神奈川県横須賀市に生まれた裕二のサッカー人生は、幼稚園の年長組にあがった5歳からスタートする。

1歳上の兄、悠斗が地元にある城北ファイターズでサッカーをやっている友人に誘われて入団する時に一緒に始めた。サッカーに目覚めた小野兄弟に、高校時代にサッカーに打ち込んだ父親がさらにサポート役としてファイターズのコーチを買って出た。サッカーの虜になった小野兄弟は学校が終わると、サッカー三昧の毎日に明け暮れたが、一つ年上の兄と一緒に始めた裕二は、プレーするチームもいつも年長のチームに入った。

城北ファイターズの練習は週末しかなかったため、兄弟が打ち込んだのはストリートサッカーである。毎日、地元の小学校や中学校にサッカー少年達が集まり、ボールを蹴り合ったが、低学年の小野兄弟は何一つ臆せず年長の5、6年生にときには中学生相手に試合を挑んだ。小学1、2年生のちびっこが6年生相手に果敢にドリブルで仕掛ける。対戦相手がいなければ、自分達で相手を探しに行き、ときには高校生相手にも挑戦状を叩きつける生意気な「ガキ」だったが、小学生となめてかかってくる相手をドリブルで置き去りするビックリプレーで度肝を抜いた。

サークルK 第9回F・MarinosCup
少年サッカー大会4年生の部

小よく大を制す

サッカー以外の遊びはケイドロやカチコチ(氷鬼)に夢中になった。いつも外で遊びまわった裕二の唯一の弱点は泣き虫だったことだ。サッカーをしても試合中でも兄弟でもめると兄にやりこめられ、泣きながらも負けまいとプレーは懸命に続けた。このひたむきさが裕二をたくましく成長させた。

ストリートサッカーで鍛えてはいたものの荒削りなプレーが目立つ裕二は、城北ファイターズの週末の練習で基本を徹底的に磨いた。当時の監督は厳しい人でピッチに立ったら常に真剣にプレーする事を学んだ。対戦相手が弱くても手を抜いたら怒られた。年長チームに交じって戦う裕二は、特に身体が小さかったが、監督から体の使い方を学び、小さくても戦える術を身につけた。幼少のときに身につけたこの武器は、身体が小さくてもプロになれた大きな要因につながった。

小野兄弟はサッカーを始めるとその才能を一気に開花させた。同時期に始めた友人は始めた頃から別格で才能の違いを感じたと言う。とくに裕二はとにかくボールを持つ事を好み、持ったボールは絶対に取られなかった。子供の時の口癖は「サッカーでボール持ってなかったら何にも楽しくないじゃん」である。

負けず嫌いの裕二が、小学生時代にどうしても勝てない相手がいた。横浜Fマリノス・プライマリーであった。神奈川の上手い選手が集まるエリート集団だった。その宿敵マリノスから兄弟二人に入団のオファーが届き、当時コーチだった父は「マリノスからの誘いなんだから二人とも希望する」と思いきや、意外な答えが返ってきた。「まだマリノスに勝ってないんだから、城北ファイターズを離れてマリノスに行くわけにはいかない」。二人の負けじ魂には、父親も驚くほどでマリノスのオファーをあっさりと断った。城北ファイターズ時代の最高成績は小学5年生の時の県大会ベスト8である。

チームの結果よりも裕二が自慢する小学生時代の一番の思い出がある。6年生の時に日本全国から200チームぐらいが集まる静岡・清水で開催された草サッカー大会・清水カップで得点王になったことだ。小学生のころにゴールを量産したことがやがて「プロ」を知らず知らずのうちに意識させ始めた。それは自然と芽生えた意識であったからこそ、プロになりたいという漠然とした夢ではなく、サッカー選手に絶対になると強い思い込み以外は頭になかったのである。当時の小学校の先生は「本当にサッカー選手になれて良かったね。なれなかったらどうしようか心配だった」と語っているが、類まれなプロ意識を持ったサッカーボーイであった。

サークルK 第9回F・MarinosCup
少年サッカー大会4年生の部

プラチナ世代

中学生から横浜Fマリノス・追浜ジュニアユースに入団。小学校の時は断ったが、中学からマリノスに入ろうと決めていた。ここでも一足先に入っていた兄と同じチームだった。

入団直前に足首を骨折し、スタートでつまずいた。体力が落ちていた事もありとにかく1年生の時は走らされた。コーチも厳しかった。体力が無かった裕二は特に走らされた思い出が強いが、この時に養った体力と気持ちの強さは後に裕二を大きく成長させる。

1年生の時にナイキ・プレミアカップに出場する機会があったが、公式戦の出場は数えるほど。2年生になってAチームに入り、途中出場で公式戦に出る機会が増えていった。監督からは規律を守る厳しさを学び、サッカーの戦術にも貪欲に興味を示した。

中学生2年生の時にクラブユースで初めて全国優勝。本当に勝つ喜びを味わった。初めて代表にも選ばれたが、プラチナ世代と言われている裕二らの年代には仲の良い宇佐美貴史ら早くからプロで活躍する逸材も多く、これが大きな刺激になった。裕二の夢は「一足先に海外でプレーしている宇佐美とはいつかまたA代表で一緒にプレーをしたい」である。

adidasCUP2006第21回
日本クラブユースサッカー選手権(U-15)大会

プロの壁

高校生になった裕二はそのまま横浜Fマリノス・ユースに昇格した。ユースもまた、兄と同じチームだったが、1年生ながらにしてすぐにAチームに入った。しかし、プリンスリーグ開幕直前に手首を骨折してまたまたスタートで出遅れ、本格的に公式戦に出場したのは10月の高円宮からだった。主力としてプレーした2年生のときに、高円宮杯で全国制覇。これが飛躍のきっかけだった。

2年生の夏に初めてトップチームの練習に参加した。1か月の帯同予定だったが、トップチームの初参加は「遠慮」が自然とプレーに出てしまい1週間ですぐにユースに戻された。トップチームへの道は険しかったが、3年生の7月にチャンスが巡ってきた。

トップチームに怪我人が多く、ちょうど裕二も累積で次節のユースのリーグ戦に欠場という巡りあわせが「プロ」の扉を押し開ける。人手不足で呼ばれた横浜FCとの練習試合で2点を入れる活躍に当時の木村和司監督の目に留まった。念願のトップチーム昇格。Jリーガー裕二の誕生である。2010年7月17日、ベンチ入りした裕二は、13節の広島戦で途中出場のデビューを果たした。「突然すぎてなに一つ緊張はしなかったが、考える余裕も無かった」と振り返ったが、翌節のガンバ戦でスタメン出場を果たし、ロスタイムのアシストでチームの勝利に貢献した。これが大きな自信に繋がった。トップチームのシーズンが終わり、3年生最後を迎えて、裕二はJユースに参加する事を希望し決勝トーナメントから参戦した。しかし、気力が空回りしたのか、レッドカードで退場。仲間の頑張りで準決勝へ進出。そしてつかんだ優勝。ユース時代を共に過ごした仲間と最後の大会で頂点に立てたことは裕二のサッカー人生のなかでもひときわ輝いている。

新天地

プロ1年目にして10番をチームから託されたが、なに一つ臆する事はなかった。出場も恵まれない時期はあったが、途中出場、スタメンの機会を与えてもらうことが出来た。2年目を迎えた2011-12年シーズン、チームの主力としてスタメンで出る機会も増え、累積以外は全試合に出場した。

人生はじめての10試合勝ちなしの悲哀を味わい、勝てない苦しさも経験するなかで、偉大な先輩として尊敬する中澤選手や中村選手から多くを学んだ。プロサッカー選手として裕二に大きな影響を与えた中澤選手からはサッカーに取り組む姿勢を、テクニシャンの中村俊輔がピッチで魅せる技を肌で感じとっていたが、成長途上にあった裕二に海外移籍のオファーが飛び込んできた。

2013年1月、オフ中の出来事だった。この話を聞いて裕二は何一つ迷うことなく決断した。一足早く海外に挑戦した兄はメキシコでプレーしている。幼少のころから、ずっと兄の背中を追っかけてきた裕二には、普段は会話もしない仲なのに、その兄がなぜか無言で背中を押してくれた気がした。

海外でプレーしたいという想いは、中学の時から心のどこかでくすぶっていた。マリノスでプロになった時からその気持ちは更に強くなっていた。だからこそ、移籍話がきた時には、このチャンスを逃したくなかった。「マリノスで優勝してから」という思いもあったが、海外に出て行きたい気持ちを抑えることはなかった。「海外に来れた事は本当に嬉しいし、自分の一つの夢が叶った」と裕二は喜ぶ。だが、目標設定には「海外でプレーする事ではなく、海外で活躍する事にある」と自らを厳しく追い込んでいる。裕二の新たな挑戦が、EU(欧州連合)の中枢といわれるベルギーで始まっている。

2013シーズン

ベルギーに到着し1日目にメディカルチェックを受け、休息もそこそこで2日目からチームの練習に参加した。初日の練習でインパクトを与えた裕二はチームから合流して4日目でメンバー入りし、後半から出場した。裕二自身も思ってもいなかったほど新天地のリーグデビューだった。その翌試合もメンバー入り、先発出場の機会はなかったものの、ベルギーダービーと言われているアンデルレヒト戦に途中出場し、幸先良いスタートを切る事が出来た。
しかし、その後はレギュラーに定着する事は難しく多くの出場機会を与えてもらえないままシーズンは終了した。出場機会は少なかったものの、ベルギーでの生活にも慣れ翌シーズンに向けての準備には良い充電期間となった。

公式戦出場 9試合 1アシスト

2013-2014シーズン

欧州に移籍して初めてのプレシーズンを迎えた。チームには新たな選手も多く加わり、監督もイスラエル人のガイ・ルゾンに代わり始動した。初めてのシーズン最初からのスタートに意気込んでいた裕二は新監督にも認められプレシーズンマッチから多くの出場機会を得てレギュラーに定着しつつあった。

順風満帆のプレシーズンの終盤に悲劇が襲う。開幕1週間を切った7月21日のRoyal Excelsior Virton(エクセルシール・ビルトン)戦だった。ボールをキープし相手のチャージを踏ん張ったその時、『ゴキッ』。今まで聞いた事のない凄まじい音が体の奥底から聞こえるというより響き渡る感じだった。あまりの激痛に「膝が真逆に曲がったと思った」。そのまま負傷退場。翌日、病院で検査を受けた結果は左膝前十字靭帯断裂。

チームと話し合い、裕二の希望を聞いてもらい手術の為に日本に帰国。所属していたF・マリノスにもサポートをしてもらい病院、手術はスムーズに進んだが、長いリハビリの生活が待ち受けていた。

膝が曲がらず、ひたすらリハビリに打ち込む。サッカーボールと無縁の生活が続き、完治までには想像以上の時間と苦痛の時期だったが、裕二は決してネガティブな気持ちにはならなかった。「絶対に治して、またサッカーがしたい!」「今までよりも強い自分になって復帰する」。この気持ち一心でそれ以外は何も考えていなかった。

「関東労災病院のドクターの方々、リハビリの先生、それ以外の病院のスタッフの方々には大変良くしてもらい多大なる感謝をしている気持ちでいっぱいで早くサッカーをして活躍する事がお世話になった人たちへの恩返しだと思っている」と裕二は当時を振り返る。

病院でのリハビリが終わった後はサッカー復帰に向けて本格的なJISS(国立スポーツ科学センター)でのリハビリに取り組んだ。約2ヶ月間泊まり込みでのハードなトレーニングに明け暮れたが、ここでも素晴らしい先生たちと出会い、そして違う競技のトップアスリートや同じサッカーの先輩達から新たな刺激を受けた。ほぼ7ヶ月のリハビリ生活で得たものは裕二にとって「すべてが僕が成長するための貴重な肥やしになった」。

2014年2月中旬にベルギーに舞い戻った。チームに復帰したものの、ピッチにも立てるどころか、サッカーすら出来ずにここでもリハビリ生活が続いた。やっとボールを使ったトレーニングも始まったが、とにかく走って、走って、走りまくる生活だった。「毎日10数キロ走っていた。あの時はユース時代を思い出した。ただ、こっちのトレーナーは一緒に走ってくれるんだけどとにかく速くて、あまりのスピードにびっくりだったね」

チームは絶好調のシーズン。1位でリーグ戦を終えてプレーオフに入ったが、最後のプレーオフで勝ち点を重ねる事が出来ずに優勝は出来なかった。シーズン終盤からチームに合流して練習に復帰。やはり最初はみんなに混じってサッカーをするのは正直怖かったという。「とにかく感覚が掴めなくて、身体がついてこない。この時は本当に前みたいな感覚に戻るのかなと不安になった時もあった」と苦悩を打ち明ける。結局、このシーズンは公式戦に出る事はなく幕を閉じた。

2014-2015シーズン

怪我から復帰して2度目のプレシーズンを迎えた。オフの間、日本に戻っていた期間中もトレーニングを積み重ねてベルギーに戻った。プレシーズンでは344日ぶりに試合に出場。「正直あの時は自分でもやっと戻ってこれたんだな」とその感動を素直に口にした。

しかし、長いブランクは、本調子を取り戻すにはその壁はあまりにも高く、プレーでも状況判断でも、あらゆる面でセンスを鈍らせ、なかなか本調子に戻れない。「やっと調子が出てきたと思ったら身体がついてこなくて筋肉系の怪我に見舞われる。その繰り返しが続きシーズンが始まってもなかなか安定して試合の出場機会がもらえなかった。あの時は本当に不甲斐なかったよ」

待ち望んだ公式戦再デビューは8月26日のチャンピオンズリーグ予選2試合目のゼニト戦。「シーズン始まって1ヶ月経ってたけど、まさか復帰戦がチャンピオンズリーグとはね!フッキ(ブラジル代表)の強さを目の前で見た時は世界のレベルを肌で感じたよ」その後は出たり出なかったりの悩める日々が続いたが、リーグ戦第7節、やっとチャンスが巡ってきた。スタメンで起用された試合は人生初の右サイドバック。「やった事のないポジションでその週の練習に右サイドバックで行くぞって言われて、どうしたら良いのかなと思った。でも、とにかく試合に出てプレーがしたいその気持ちしかなかったからどこのポジションでも良いし、しっかり仕事をしてチャンスを掴んでやろうって思っていた。試合の前には内田君(日本代表)にアドバイスを貰って勇気付けてもらったよ!」両足がつりかけても走り続けた試合はフル出場。

しかし、チームは10月になっても結果が出ず、ルゾン監督が解任された。コーチだったイバン・ブコマノビッチの就任は裕二にとって追い風となり出場機会が巡ってきてフル出場する機会も増えた。12月27日のリーグ第21節のKSC Lokeren戦ではベルギーリーグで待ち望んでいた初めてのゴールが生まれた。「ずっとゴールは狙ってたんだけど、やっと入ったって感じ。リハビリから始まった2014年最後の試合で決めれたのはめちゃくちゃ気持ち良かったね。」怪我の苦難からやっと良い形で1年を締めくくることができた。

しかし、裕二の思惑とはまるで方向違いのように2015年が明けると、2月初めにはシーズン中2度目の異例の監督交代が起きた。クラブの理解しがたいこの交代劇は選手誰もが納得しえなかった、という。3人目の監督になってから試合には出場したものの、出場時間が短く不完全燃焼のままでシーズンが終わる。
「ベルギーに来て初めて1シーズン通してプレーする事は出来たけど、正直出れたり、出れなかったりという状況は辛かった。もちろん、試合に出れなかったのは足りない物があったからなんだけど、もっともっとコンスタントに試合に出ないと成長出来ない。翌シーズン、このまま残るのか、どこかに移籍するかは全く分からなかったけど、とにかく試合に出て経験を積む事が自分には必要なんだって心から思ったよ」

公式戦出場試合数 30試合 2ゴール 1アシスト

2015-2016 シーズン

ベルギーに来て3度目のプレシーズンは思ってもいない幕開けとなった。スタンダールは新たな監督と契約。このクラブに来て5人目の監督となったが、裕二を待ち受けていたのは「戦力外」という非情な知らせだった。チームのキャンプにも帯同させてもらえず、新たな新天地を探すという苦悩の日々を送る。

そんな中、1部に昇格したSTVVシントロイデンからオファーが届いた。「正直、最初は迷った。もっと他のクラブが出てくるのを待つべきなのか。でもリーグは1週間後に開幕するし、自分はベルギーで未だ何も成し遂げていない。日本に帰るつもりも一切なかったし、ヨーロッパで続けたい。STVVは僕の事を評価してくれて、クラブの試合を観に行ったり、練習に参加してここで挑戦しようって決めた」その決断をしてからすぐに移籍。

契約して4日目で迎えたリーグ開幕戦はスタメンでフル出場。チームは昨シーズン優勝争いを繰り広げていた強豪FC Bruggeから金星をあげた。「やっぱり試合に出る事こそがサッカー選手として一番の成長、とにかくここで頑張る」

開幕に金星をあげたチームの前半戦は、「プレーオフ1」圏内の6位をキープし続けた。2部から昇格したチームにとっては良い成績で折り返した。

裕二もカップ戦を除く全ての試合に出場、15試合中14試合をスターティングメンバーで出場しチームの主力選手に定着。ポジションは今までの前線よりも低いポジションでプレーする事が多く、攻撃、守備の両方での「汗かき屋」としての仕事を任され、どんな局面でも渾身のプレーでチームに貢献した。印象的な出来事をあげてみる。海外移籍の第一歩を刻んだ古巣Standard Liegeとの対戦では、その恩返しともいえる勝利を挙げた。

順風だった前半から一転して不運が訪れる。シーズン途中の思わぬ監督の移籍、さらに冬の移籍市場で主力選手達も次々と新天地へ移ったため、戦力は後半戦に失速した。

苦境のチームの中で23歳の裕二は、チーム内ではベテランとしての統率力が求められた。平均年齢が若いチームだっただけに苦しい状況からなかなか立ち上がる事が出来ずに負けが込んだ。苦戦が続くなかで迎えた最終節は、奇跡的な引き分けに持ち込み、ギリギリで1部残留を決めることが出来た。苦境のチームのなかで裕二もまた、苦しい後半だった。チームの失速と共に年末の21節目からの怪我が響き出場機会が減る。終盤はほとんど活躍する機会に恵まれないままリーグ戦、プレーオフが終わってしまった。

裕二は、激動の1年をこう振り返った。「前半戦に関してはベルギーに来てから初めてコンスタントに出場機会する事が出来て満足している。その反面、怪我に苦しんだ後半戦はまたしても歯痒い納得のいかないシーズンになってしまった」。
2015-2016シーズンの反省を糧に新シーズンに向けて裕二は、新たに闘志をたぎらせる。なによりもシーズン通してしっかり活躍する事を目標に置く。「ベルギーに来て5シーズン目を迎える僕にとって、今シーズンは人生をかけた勝負の年になる。何が何でも結果を残したい」

26試合出場